近年、大学の在り方が折に触れて問われるようになりました。もともと、わが国では、大学は不可侵な知の殿堂とみなされており、効率化、費用対効果などといった経済的評価の物差しとは無縁な「聖域」とされてきました。大学の役割が教育と研究であることについて、異論を差し挟む人は一人としていないでしょう。とはいえ、教育と研究の中身についての理解は人によってまちまちなのが実情です。

 その昔、大学での教育は、文系に関して言えば、哲学、歴史、思想史などの習得に重きが置かれていました。経済学部では、経済原論(唯物弁証法に基づくマルクス経済学)、経済史、経済学説史など、世俗を離れた高踏的な学修が、専門教育の中枢部を占めていました。また、主にドイツ語またはフランス語を第二語学として修得することが義務付けられていました。

 そんな役に立ちそうにもない教育を受けた人が、企業や官庁の事務職員として採用され、企業経営や行政の担い手となっていたのです。要するに、大学は実学の府ではなく、「虚学」(直接的には実社会で役に立ちそうにない学問)の府であるとされてきたのです。

 ところが、虚学は「直接」には役立たないけれども、間接的には、とても役立つのです。法律家から政治家に転じ、第16代米国大統領になったエイブラハム・リンカーン(1809年~1865年)の少年時代の愛読書は、聖書、イソップ物語、ユークリッド幾何学原理だったそうです。要するに、法律家にとって必須の能力である論理的な思考力を、一見、何の関係もなさそうな平面幾何学の勉強により、リンカーンは身に付けていたのです。論理的な思考力は、法律家以外の仕事に就くに当たっても、必要不可欠な能力のひとつなのです。教員にせよエコノミストにせよ、論理的な思考力を欠いていたのでは、まっとうな初等中等教育に携わることはできないでしょうし、会社の会議でも筋道だった意見の展開ができないでしょうね。

 かつて池田勇人内閣の『所得倍増計画』(1960年)は「経済成長に寄与・貢献する人材の養成」という義務を、大学に対して明確に課したのです。以来、「有用性」という尺度で、教育や研究の価値を測るという悪しき風潮が、この国に根強く定着したのです。以来50有余年を経た今もって、こうした偏見が堂々とまかり通っているのです。言い換えれば、1960年、高度成長期が始まって間もないころの「追いつき追い越せ」症候群から脱し切れていないのが現状なのです。

 君たちが愛用しているスマートフォンの先駆iPhoneの開発者であり、アップルの創業者であるスティーブ・ジョブスは「画期的な新製品を生み出す源泉は、ヒューマニティーズ(人文知)に裏打ちされたテクノロジーである」と述べています。つい先頃まで「ものづくり大国」と言われていた日本の製造業各社は、今や、韓国、台湾、中国の追い上げと、欧米先進諸国の先端技術の挟み撃ちに遭い、苦境に追い込まれています。例えて言えば、日本の電機メーカーは、前門の虎アップルと後門の狼サムスンに日々脅かされているのです。専門のテクノロジーを学ぶに先立ち、ヒューマニティーズの知見を広める機会を、わが国の高校や大学で提供しなければなりません。教員を目指す諸君、企業人を目指す諸君もまた、ヒューマニティーズの知見を広めるよう努めて欲しいというのが、本学の学長としての私の心よりの願いであります。