新入生の皆様、滋賀大学への御入学おめでとうございます。本日、教育学部256名、経済学部614名、大学院教育学研究科修士課程49名、大学院経済学研究科博士前期課程40名、大学院経済学研究科博士後期課程4名、特別支援教育専攻科16名の新入生を迎えて、彦根市長様をはじめとする来賓の皆様方、またご家族の方々のご列席の下、入学式を挙行できますこと、心よりお喜び申し上げます。

 本日より君たちは、人生のクライマックスとも言うべき、大学での充実した生活を始めるのです。本学の学長としてまず申し述べたいのは、本学に在学中、君たちには、大学でしか出来ないことに没頭して頂きたいという私の願いであります。

 本学は、専門的職業人の養成を目標の一つに掲げていますが、専門的職業人とは何なのでしょうか。まずもって必要なのは、深い「教養」を身に付けることです。教養とは、歴史、哲学、文学、社会科学、自然科学といった幅広い分野にわたり、浅からぬ知識と洞察力を身に付けることなのです。

 英語では、深い教養を備えた人のことをインテレクチュアルと言います。昨今、大学の役割の一つに「グローバル人材の養成」が掲げられるようになりました。グローバル人材の条件とは、英語が堪能なことに加え、あるいはそれ以上に、自他ともに許すインテレクチュアルであることなのです。

 教養を身に付けるには、まずは、読書するしかありません。そして、読書するだけではなく、読書して得た知見を基に、友だちと議論し合うことが、教養ある人間になるための秘訣なのです。明治から昭和にかけての歌人与謝野鉄幹は「人を恋うる歌」の中で「友を選ばば、書を読みて、六分の侠気四部の熱」と語っています。その意味するところは次の通りです。読書家であり、弱い者を助ける正義感と情熱に満ち溢れた人を、友人にしようではないか、という意味です。

 1970年代の半ばごろまでの日本では、国内外の思想家によって綴られた古典を読破し、思想家の言説をわがもの顔にして振る舞うのが、誇り高き大学生の証のように思われていました。ところが、昨今の日本では、「活字離れ」と言われ始めて久しく、恐らく君たちの大半は、読書とは無縁な高校生活を送ってこられたに違いありません。なぜかと言うと、受験勉強にとって読書は、有害でありこそすれ無益だからなのです。

 フランスには、日本のセンター試験に当たる、バカロレアという大学入学資格試験があります。バカロレアに合格しさえすれば、どこの大学にでも入学できます。定員をオーバーした大学ないし学科では、先着順であったり、地元に住む者が優先されたり、バカロレアの高得点者が優先されたり、選抜の方式は様々なのです。

 バカロレアの問題は完全な記述式で、主要科目の一つである哲学の問題を例示すれば、次のようないかにも難しそうな問題なのです。「不可能を望むことは非合理か」、「言語は思考を裏切るか」。日本のセンター試験とは大違いですね。こんな問題に答えることができるような勉強、すなわち哲学書の熟読を、フランスの大学受験生は徹底的に積み重ねているのです。

 アメリカでは、どうでしょうか。アメリカは「ゆとり教育」の本場です。人前で自分の考え乃至意見をわかりやすく伝える能力、意見の違う者と討論(ディベート)する能力、様々な自然現象や社会現象への関心、論理的な筋道だった思考力、芸術作品を鑑賞し評価する力などを身に付けるのが、小中高校での教育の主たる狙いなのです。

 知識の詰め込みをするのは、大学4年間においてのことなのです。大学の入学試験はありません。日本のセンター試験に当たるSAT(Scholastic Aptitude Test)の点数、高校の成績、高校の担任の先生の推薦状、高校在学中の部活動歴や生徒会活動歴、男性か女性か、出身地域、人種などを見て、総合的な判断をくだし、バランスに配慮して入学者を選抜するのです。

 アメリカの大学に学部はありません。大学に入学してから、主専攻(メージャー)と副専攻(マイナー)の科目を決めます。数学が得意だと思って、数学を主専攻とし、ジャズ音楽を副専攻に選んだとしましょう。ところが、授業が進むにつれて、次第に高度化する数学の授業についていけなくなり、主専攻を生物学か経済学に転向するといったふうに、試行錯誤を繰り返しつつ、自分の関心と適性を見極め、大学院レベルで、将来の職業に直結する専門教育を授かるのです。

 ビジネススクール、エンジニアリングスクール、ロースクール、メディカルスクール、そして数学、経済学、生物学などの研究者を養成する大学院(グラジュエートスクール)のいずれかに進学するのです。

 アメリカの大学生・大学院生の猛勉強ぶりには、実に凄まじいものがあります。人文・社会系の科目なら、関連分野における、膨大な読書の宿題(reading assignment)が課せられます。しかも、大学たるもの「入るは易しく、出るは難し」であり、州立大学の平均卒業率は50%を割るそうです。

 このように、国によって、大学での教育の在り方の差異は大きいのです。日本では、高校までに知識の詰め込みが概ね完了しているせいもあって、大学生の勉強時間は、欧米のみならず、中国、韓国、台湾と比べても圧倒的に少ないのです。また、授業の出席率は、往年と比べれば高くなっているとはいえ、授業中の私語、居眠りなど、少なくとも私の経験に照らす限り、外国では見られない授業風景が日常化しています。もちろん、それは学生の側だけの責任ではありません。学生を教える教員の側もまた、責任の一端を負わねばなりません。

 皆さん、一昨年、話題になり、テレビでも度々放映されたハーバード大学のマイケル・サンデル教授による政治哲学の名講義を御存知でしょうか。1000人を超す学生相手に、サンデル教授が「かくかくしかじかの状況に直面したら、君だったらどうする」といった類の質問をします。日本の大学生とは違い、何人もの手が上がる。「じゃあ、そこの青いシャツを着た男性」とサンデル教授に指差された学生が、自分のファーストネームを最初にいった上で答える。その答えを聴いたサンデル教授は「なるほどジョンは功利主義者だね」といった具合に、学生の意見を政治哲学に関連付けて、政治哲学の講義を進めるのです。見事としか言いようがありません。

 こういう対話形式の授業を、もっと増やさないといけない、と私は常々考えています。そのためには、教える側の教員は、黒板を上手に使い、専門的知識をわかりやすく、丁寧に学生に解説することのできる「教育のプロ」でなければなりません。率直に申し上げて、諸外国と比べて、日本の大学の先生方の多くは「教育のプロ」としての意識が希薄であるかのように思われますし、教育のプロになるための訓練を、大学院で受ける機会もまた乏しすぎる嫌いがあります。

 大学は高校や予備校とは違うのです。学生諸君には、先生の言うことを頭から信じ込んだりはせずに、別の考え方もあるのではないか、先生の言説が当てはまらないケースがあるのではないかなど、先生の言うことを批判的に受け止める能力を、自分の頭の中に刷りこむことが、大学における勉学の基本のキホンなのです。

 イギリスの教育心理学者ノエル・エントウィスルの著書『学生の理解を重視する大学授業』によると、大学教育とは、教員の知識のタンクから学生の知識のタンクへと知識を移す営みに留まってはならない。学生が授業の中で得た知識を、自分がすでに持っている知識と関連付け、学生自身が新しい世界観を創りだすことが、大学教育の目指すところでなければなりません。

 「理解」するとは、こういうことなのです。したがって、教員の役割は、学生の「理解」の手助けをすることに他なりません。こうして得られる「理解」こそが、テストが終わるとすぐに忘れてしまうようなものではなく、生涯にわたり、頭の中枢部に居座り続け、折に触れて活用することのできる貴重な知的資産なのです。

 こうした意味で、本学の教員には、工夫を凝らし、学生諸君の「理解」を誘う授業を行うことを願いたいし、学生諸君には、「理解」の素地となる「自分が持っている知識」の幅を広げ、奥行きを深めるための、読書、そして友人との熱のこもった討論を日常化してもらいたい。

 一昨年4月、本学の学長に就任した私は2つのモットーを掲げて学内行政に携わって参りました。1つは、滋賀大学を魅力と活力に満ち溢れた大学にすること。2つは、学生諸君に、滋賀大学に入学して良かったと思ってもらえる大学にすることです。

 君たちが、人生において最も貴重な時を過ごすこととなった滋賀大学を、私が目指す大学とするためには、君たち1人ひとりの協力がなくてはなりません。学長といたしまして、君たちの協力を心より願いつつ、私の理想を実現するべく邁進することを誓います。

 そのためには、君たちが「理解」する力を身に付け、インテレクチュアルを自負するに足るだけの教養を備えた人材に育ってくれることを願ってやみません。

 改めて申し上げます。皆さまご入学まことにおめでとうございます。

2012年4月6日
滋賀大学長 佐和隆光